戸籍に記された「ビルマの最期」を辿って。軍歴証明書が明かす叔父の足跡

ビルマの闘いヤンゴン日本人墓地の慰霊碑

【戸籍から紐解く日本の歴史シリーズ】
今回は「ビルマ戦線」の記録から見える歴史をお伝えします。

あるご家族の家系図作成をお手伝いするなかで、戸籍に記された一文から、一人の青年の壮絶な生涯と、彼を今も守り続ける異国の地の人々の想いに触れる機会がありました。

戸籍に残された「昭和17年5月20日」

調査を進めるなかで、ご依頼主のお父様の叔父にあたるK氏の戸籍に、次のような記述がありました。

「昭和17年5月20日午前4時緬甸(ビルマ)サガイン地方オウクタン(パウングビン南(方?)西四粁(4キロ))戦〇闘に於て戦死」

ビルマ(現ミャンマー)は、日本軍にとって石油資源を確保するための最重要拠点で、1942年(昭和17年)4月17日〜19日頃に起きた「エナンジョンの戦い(イナンジョンの戦い)」では、日本軍はビルマ最大の油田地帯を占領し、その勢いを示していました。

K氏が所属していた部隊は、(後に取り寄せた軍歴証明書によると)「第三十三師団歩兵第二百十三連隊」であり、亡くなった5月という時期は、日本軍がラングーン(現ヤンゴン)を攻略し、ビルマ全域を制圧しつつあった勢いのある時期で、日本の自存自衛を懸けたエネルギー資源確保の最前線に立っていたのではないかと推測できます。

※下記写真は1942年、イェナンジョンで油田を占拠中の第33師団の兵士(wikipadia:第33師団 (日本軍)より)

また、死亡の地域として戸籍に書かれていた「オウクタン(オークタン)」は、現在の地図から場所を特定することができませんでしたが、「パウングビン」はおそらく(Paungbyin, ဖောင်းပြင်မြို့နယ်)で、サガイン地方にあるチンドウィン川沿いにある町、その南方西約4キロ地点がオークタンとなるのではないかと推測。この地名は第二百十三連隊の行動が書かれている「公立公文書館アジア歴史資料センター」の資料にも同じ地名を確認することができました。

その後の日本軍は、援蔣ルートの遮断などを目的としてビルマ全土を制圧したものの、1943年末以降、イギリスは本格的反攻に転じ、ビルマ戦線は、物資・補給の不足に苦しむ凄惨な戦場へと変わっていきます。

そして、1944年の日本軍「史上最悪の作戦」と呼ばれる「インパール作戦」によって壊滅的打撃を受け、最終的に投入された日本人兵士約33万人のうち、半数を超える約17〜18万人もの方々が戦死・戦病死したとされています。

「誉の家」という光と、家族の秘めた思い

ご家族の手元には、K氏が戦地に赴く前の写真が大切に残されていました。

スタジオで撮影されたモノクロ写真には、フェルトハットに白い背広を颯爽と着こなした、映画俳優のように整った顔立ちの青年が写っています。

一方で、出征直前の写真では一転して軍服姿となり、大きな花輪と日章旗、「祝・出征」の文字に囲まれ、家族全員に囲まれていました。

当時は兵士として戦地へ行くことは「名誉」であり、戦死すれば「英霊」として神格化され、

家族は表向きには「誉れの家」として誇らしく振る舞わなければなりませんでしたが、その内側には、言葉にできない不安と悲しみ、そしてやはり無事を祈りながら、その思いを公に口にすることはできない時代でした。

失われたはずの記録を呼び戻す「軍歴証明書」

K氏の歩みをより詳しく知るため、K氏の甥にあたるお父様が「軍歴証明書(兵籍簿)」の申請を行いました。

軍歴証明書とは
主に1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年の太平洋戦争終戦までの期間に、旧陸海軍に在籍した将兵の入隊から除隊(または戦死)までの配属部隊、階級、賞罰、病歴などが記録された公文書です。

陸軍: 本籍地の都道府県庁が保管
海軍: 厚生労働省が所管

※終戦直後の組織的な書類焼却により、消失しているケースも少なくありません。

今回、申請から約1ヶ月で届いた資料は、驚くほど詳細なものでした。表紙にはGHQの印が押され、昭和14年の入隊から、中国大陸での勤務、そして昭和17年にビルマの地で最期(当時25歳)を迎えるまでの移動状況や病歴が、日付と共に克明に記されていたのです。

太平洋戦争末期の混乱期とは異なり、比較的記録が整っていた時期の戦死であったことが、これほどまでの詳細な記録を後世に残してくれたのかもしれません。

これらの軍歴証明書を手にしたご家族からは、
お父様が「みんなで墓参りに行こう」とつぶやき、娘さんは「この写真を見えるところに飾りたい」と話してくださいました。
それまで戸籍の一行だったK氏が、再び家族の記憶の中に戻ってきたような瞬間となり、
その場に立ち会えたことは、私にとっても忘れられない出来事となりました。

ミャンマーに今も残る、日本人の「魂」の場所

K氏が命を落としたビルマの地について調べるなかで、ある記事にたどり着き、胸を打つ事実を知りました。

ミャンマーのヤンゴンにある「日本人墓地」は、遺族会から「世界中で最もよく管理されている」と評されるほど、現地のミャンマー人スタッフによって世代を超え、手厚く守られ続けているということ。

かつて、この慰霊碑の撤去が検討された際、当時の佐藤栄作首相(1967年9月)がネ・ウィン大統領の前で涙したそうです。一国の総理大臣のその姿を見たネ・ウィン大統領は深く心を動かされ、慰霊碑の撤去を思いとどまったという逸話があります。

この慰霊碑が建つ「ヤンゴン日本人墓地」は、ビルマ平和記念碑の維持管理費として、日本の厚生労働省から毎年30万円の支給を受けているほか、個人からの寄付、それに加えてミャンマーの人々の協力も重要な支えとなっています。

2025年3月にはサガイン地域で発生した大地震では、日本人慰霊碑や墓地が被災・損壊しました。戦後80年の節目に起きたこの地震を受け、慰霊碑の修復や補強活動が地元住民の協力を得て実施されているそうです。

ミャンマーにいる仏教徒には、遺骨を特別に扱う文化はなく、慰霊碑という概念自体もミャンマーの仏教徒と日本人の考えは異なります。そんな中で、日本人にとって遺骨が大切なものであることを理解している方々によって供養され続けているというヤンゴン日本人墓地(正式名称ヤンゴン・イエウェイ日本人墓地)は歴史的にも貴重な場所でもあります。

家系図作成の過程で知る命の歴史

今回、ご両親と娘さんのご家族で家系図に向き合った時間は、単なる名前の確認ではなく、K氏という一人の青年が見たであろう「日本の歴史」を追体験する時間となりました。

「なぜ、今の私たちがここにいるのか」

その答えは、戸籍の一行や、軍歴証明書の無機質な日付の裏側に隠されています。

家系図作成の過程で知る、家系が体験してきた出来事を辿ることは、先祖が懸命に生き抜いた証を見つけ出し、その想いを次世代へとつないでいくことができるひとつの重要な体験のひとつなのです。

【参考情報】
軍歴証明書の申請にご関心のある方は、以下のリンクも併せてご覧ください。
軍歴証明書の申請方法(家系図辿りびと 関連記事)
旧陸海軍資料の申請について(厚生労働省公式)

ヤンゴン・イエウェイ日本人墓地
住所:Mingaladon Township, Yangon
ヤンゴン市内からは1時間、ヤンゴン空港からは片道30分。