戸籍に残る「軍艦河内」爆沈の記録。家系図調査で見つかる先祖の歴史と行年不明の謎

家系図を作るために戸籍(除籍謄本)を取り寄せると、そこには単なる名前の羅列ではない、歴史の重みを伝える記録が残されていることがあります。 今回は、あるご家族の戸籍調査で見つかった「軍艦河内爆沈事故」の記載を例に、戸籍から歴史を読み解く方法と、その意義についてご紹介します。

戸籍に記されていた文字。


それは
「大正7年7月12日午後3時51分
山口県徳山湾碇内
軍艦河内乗船中同艦爆沈際
行年不明トナリ同月16日死亡と認定
河内艦長 正木義太報告
同年8月15日受付」

軍艦河内 戸籍記載例

戦中ではないこの時期、軍艦で何があったのかを調べてみると、その背後には、多くの命と、日本の近代史の一断面があったことを知りました。

◆なぜ、戸籍に「艦長」の名前があるのか?

通常、家族が亡くなると親族が役場へ「死亡届」を出しますが、軍人が任務中に亡くなった場合は手続きが異なります。 軍(所属部隊の長)が本籍地の役場へ直接文書を送る「報告」という形がとられるのです。

今回の戸籍に「河内艦長 正木義太 報告」とあるのは、まさにその証です。 また、遺体が見つからない場合でも、状況から死亡が確実であれば、軍の判断で「認定死亡」として処理されます。 「行年不明トナリ同月16日死亡と認定」という記述からは、爆発事故の混乱の中、遺体の確認さえ難しかった当時の壮絶な現場の状況と、事務的に処理を進めざるを得なかった軍の記録の側面が読み取れます。

では、これほど厳格な報告がなされた「軍艦河内」とは、一体どのような船だったのでしょうか。その背景にある歴史を紐解いてみます。

【歴史背景】日本初の弩級戦艦「軍艦河内」とは?戸籍調査で触れる近代史

軍艦河内は、明治45年(1912年)、横須賀海軍工廠で建造され、排水量は約20,800トン。日本が初めて自国で建造したド級戦艦(弩級戦艦)として、当時の日本艦で最強の武装を誇り、海軍力を象徴する存在でした。


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「弩級」とは、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のこと。「ド級」とも呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表された。
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日露戦争後、列強と肩を並べる「近代国家」を目指していた日本にとって、河内は単なる軍艦ではなく、国家の威信そのものでもあったようです。

戦艦河内は第一次世界大戦初期、1914年10月から11月にかけて、ドイツの基地があった青島を封鎖し、陸上のドイツ軍要塞に対する砲撃(青島攻略戦)を行い、これが河内の唯一の本格的な戦闘参加でした。青島攻略後は日本の主力戦艦として行動しながら、1917年には改装が行われ、対空銃なども増備されていた。

大正7年「軍艦河内爆沈事故」の全貌|戸籍に刻まれた死亡日時と原因

竣工から6年が経った1918年(大正7年)7月12日、
山口県徳山沖に停泊中だった軍艦河内の火薬庫で原因不明の爆発事故が発生。
その後も連鎖的に起きた爆発によって、艦は大きく損傷しほどなく沈没しました。(後に、爆発の原因は1番砲塔火薬庫にあった常用期限から5年過ぎた火薬の発火と推測されています)

爆発の衝撃は凄まじく、遺体の多くは艦内に留まらず、海へと投げ出され、流され各地に漂着。乗組員1059人の内、約621人もの命を落としたと記録されています。

軍艦河内の慰霊碑はどこにある?横須賀と山口県周南市の記録

悲劇的な出来事を風化させず、後世へ教訓を伝えるため、軍艦河内で亡くなった方々を弔う慰霊碑が、下記に建立されています。

◆横須賀市 馬門山墓地 (横須賀海軍墓地)

明治15年(1882年)に海軍省により、戦死もしくは殉職した軍人のために設けられ、戦後は横須賀市に移管され、一部は市民墓地となっています。


住所:横須賀市根岸町1-27
TEL:046-824-7561
アクセス:京急北久里浜駅下車、徒歩約7分
時間:8:30~17:00
※お盆は8:00~18:00
※お彼岸は8:00~17:30 

墓地情報はこちら》

◆山口県周南市仙島干渡

多くの遺体が付近の島々に流れ着いたことから、事故の翌年である1919年(大正8年)、山口県富田町の町長が発起人となり黒髪島と仙島の間の砂州(干渡)に「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立されました。
住所:山口県周南市大字徳山 仙島
この地では、爆沈から100年となる2018年や、近年(2023年など)においても、地元の関係者によって慰霊法要が営まれています。(周南市善宗寺)

2022年周南で慰霊祭の記事≫
日本の島に行こうサイト 仙島の詳細≫

双方の慰霊碑には、事故で亡くなった方々の名前が刻まれており、
一人ひとりが確かに生きていたという証を見ることができます。

戸籍に残された「行年不明」という表現の裏には、遺体が見つからなかった現実、そして遺された家族の時間があったことを、改めて考えさせらます。

今回戸籍をサポートさせていただいたご家族でも、当時21歳だった故人を偲ぶ慰霊碑を、兄弟で建てているという話も伺いました。

家系図作りの意義|戸籍から先祖の「生きた証」と歴史を読み解く

戸籍は、単なる事務的な記録ではありません。
そこには、戦争、事故、災害、移動、別れといった、個人の人生と日本の歴史が交差する瞬間が刻まれています。

今回のように、戸籍を調べることで初めて知る事実も少なくありません。
資料や教科書では「事故」として数行で語られる出来事が、戸籍の中では「その人の人生の最期」として、静かに残っています。

その記録に触れることで、私たちは初めて、
彼らが確かに生き、家族があり、日常があったことを実感できるのだと思います。

家系をたどることは、日本の歴史をたどること

家系を調べるという行為は、単に「先祖を知る」ことに留まりません。
それは、個人の視点から日本の歴史を見直すことでもあります。

軍艦河内の爆沈事故も、
「国家」「軍」「戦艦」という大きな枠組みではなく、

戸籍に名前を残した一人の人間として見たとき、
まったく違った重みを持って、私たちの前に迫ってきます。

埋もれていた情報を掘り起こし、その命に思いを馳せる時間を持つこと。
それ自体が、亡くなった方々、そして今を生きる子孫への、ささやかな供養になると私は思っています。

おわりに

戸籍に記されていた、たった一文。
そこから広がる歴史と記憶は、私たちに
「命の重み」や「生きるとは何か」を静かに問いかけてきます。

過去を知ることは、決して後ろを向くことではありません。
先祖がどのような歴史の中を生き、命を繋いできたのかを知ることは、
今を生きる私たちが、どのような社会を望み、
どこへ向かおうとしているのかを、あらためて考える機会を与えてくれるものでもあります。

静かに、そして確かに続いてきた命の連なりに敬意を払いながら、
これからも、戸籍という記録を読み解いていきたいと思います。

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