以前の記事に続く
娘と私の関係の課題に気づく前、
笑わなくなった娘は、
服にも、食べ物にも興味を示さない。
作り置きしたお昼ご飯は、
手をつけないまま放置され、
伸ばしっぱなしの前髪で顔を隠しながら独り言を言う。
落ち着かなくなると、家の中を歩き回り、空想の世界を旅しては一人で笑っていた。
娘に何が起きているのか、どうしたらいいのかわからず、
精神科の先生に診てもらったこともあるけれど、前髪からわずかに見える眼光で、ただ先生を睨みつけるだけだった。
友人達には発達障害や
アスペルガーじゃないかと言われ、診断を勧められることもあったけれど、それはなんか違うと思った。
学校に行かないという選択に至るまで、普通に見えていた娘が、
不登校をきっかけに、徐々に豹変し、学校に戻そうとする私の働きかけが増えるたびに、さらに悪化していく。
あの日の娘は身体を壊すことで、
言葉にならない反抗を私に表現していたのだと思う。
娘と本音を語り合った8ヶ月間の夜散歩が、私の本当の姿を映し出し、私を変えるきっかけを作ってくれた。
課題は娘でなく私。
なのに、私には何が課題なのかがまだわかっていない。
ここから始まった心の学び。
自己探求という世界で、
自分の人生で起こって来た様々な出来事が紐解かれていく。
娘を変えようとする意識は変わり、
私から発していた威圧的なエネルギー、
常識をかざし、自分もできていないことを娘に求めていた私は小さく身を潜めた。
私が私に気づくたびに、
それと同時進行するかのように娘は徐々に回復していった。
あの日から、12年が経ち、
今、娘は働きながら、
美味しそうな食べ物の話をし、会社の愚痴を言い、好きな音楽について語り、個性的なファッションが好きだと言いながら、大声で笑っている。
その笑顔の可愛さと言ったらない。
あの出来事がなかったら、
今頃、私はどんな人生を歩んでいたかわからない。
一番辛かった時は
同情も慰めもいらなかった。
共感などされても、あなたに何がわかる!と、
それ以上話す気などなれなくなった。
その時私がほしかったのは、
ただ、自分に何が必要なのか、道筋を教えて欲しかった。
だけど、今なら、わかる。
解決策に近道などない。
それほど、
自分という人間は、他人以上にわからない存在なのだ。
人生何があるかわからないけれど、
もがき、苦しむ出来事が起こった時、
そこから逃げず、自分の課題に向き合うこと。
そのトンネルは暗く長いと感じるかもしれない。
それでも、
その先に見える世界、
肩の力を抜き、素のままの自分を生きるということがどうゆうことなのか
【自分を見る】という心の探求を通して、一人でも多くの人に体験してほしいと思っている。